5月11日に静岡のツインメッセで開催中だった(株)シャコンヌの展示会において、2000万円のヴァイオリンが盗難されたという事件が報道されました。
楽器や展示方法についてさまざまな憶測が出ていますが、わたしは盗難された楽器を直接触って弾いたことがあるし、その楽器を手にしながらシャコンヌさんとお話ししたこともあるため、それも含めて記させて頂こうと思います。
盗難の楽器
盗難に遭ったヴァイオリンはグァルネリ・デル・ジェス(Giuseppe Guarneri 1698年生1744年没)の初期のものです。デル・ジェスの形と通常言われる後期の形ではなく、Zimmmermann(1726)やLenau(1727)、Dancla(c.1727)のようにCバウツのカーブが強く、丸っこいf字孔の楽器です。スクロールも後期の豪快なものではなく端正に整ったタイプです。また、小さめ(裏板の長さ:353mm程度か?)、アーチはかなり低い楽器です。
2006年秋の弦楽器フェア(科学技術館での)に出展されていたし、5月4日に名古屋での「オーパス・ワン リサイタル」で使用された楽器です。また、これまで何度もシャコンヌさんの展示会に出展されている楽器でもあります。
音量は極めて大きく、音色は低域が豊かで、太くまっすぐな装飾の少ないシルバートーン、いわゆるデル・ジェスっぽい音が出る楽器です(マイケル・レビンの音に似ているとわたしは思いました)。ただ、充分に鳴らすのはかなり難しく、オールドの良い弓で楽器の邪魔をしないように弾く必要がありました。
2000万円という被害額について
わたしも最初に聞いたときには2000万円では安すぎると驚きました。デル・ジェスの相場だけでなく、見た印象も弾いた感じでも聴いた音色でも1億円はする楽器と思ったためです。プレッセンダやロッカより明らかに上のレベルの楽器なのにと思いましたが、よくよく考えると素人考えと思い直しました。
報道記事を丁寧に読むと、15年程前から所有の楽器で、販売用楽器ではなく、レンタル向け楽器であることが分かります。通常、1億円〜2億円というのは最終的な販売価格で、仕入れ価格でもないし保険額を示しているわけでもありません。まして、レンタル用途であればむやみに高い価格設定は高い保険料につながるため有利なことではありません。
15年程前の仕入であれば今ほど高くないかもしれないし※、また、裏板の修理がありコンディション面でのマイナスが比較的安い理由かもしれません。だからこそ販売用ではなくレンタル用なのかとも思います。
そのような複合的な理由から2000万円を被害額として発表したのではないかと思います。楽器自体は私たちが2000万円で購入できる楽器ではないはずです。
※1986年に214,500ポンドでオークションで落札されたデル・ジェスがあります。また15年程前の1992年〜1995年頃は円が強かった時期で、更にディーラー間取引はオークション価格より安くなる傾向があります。仕入れ値2000万円というのは考えられない金額ではありません。
写真について
シャコンヌさんのパンフレットや展示会の案内に何度も写真が掲載されている楽器です。おそらく、表側、裏側、左右の横板、スクロールだけでなく、修理の際の内部まで詳細に撮影されているはずです。
展示方法について
弦楽器フェアなどの展示会と同様、シャコンヌさんの展示会も簡単に楽器を手に取ることが出来る展示方法になっています。とはいえ、クレモナの名工の楽器など貴重な楽器はアクリル板の裏に金具でかけてあります。手に取ろうと思えば取れるけれど、出来心でうっかりというほど簡単に取れるような展示方法ではありません。
絵画のように見て鑑賞する美術品と異なり、楽器は音を出してはじめて意味があるものです。従って、どこの楽器店の展示会でも、かなり高額の楽器でさえ容易に手に取れるようになっています。ただし、楽器の近くにはいつも店員さんが控えており、スーパーでの万引きのように盗れるわけではありません。
何度か展示会を見たことがあり、勝手を知った人の犯行とわたしは思います。
楽器を盗難することについて
今回、白マスクでショルダーバッグをかけた不審な男が疑われていますが、モデルガン片手にストッキングをかぶった銀行強盗みたいに、あまりにベタな姿なのがいささか滑稽です。
それはともかく、こういった名器を盗んで現金化に成功することはまずありません。製作者名を書いたカードに金額は書いていなかったという事ですので、犯人はグァルネリの名前と価値くらいは分かる人なのでしょう。
ですが、写真にも撮られている楽器ですので、公開の演奏に使ったらすぐにバレてしまいます(実際それで盗難楽器とバレたケースがあります)。また、名器の音は極めて高度なバランスで成り立っているため、自分で調整できなければ音は悪くなる一方です。犯人がヴァイオリンを弾く人なら、全く使えないものを盗ったということになります。
現金化のため楽器店に持っていっても、狭い世界ですしどこの店の楽器かはすぐ分かるでしょう。また、初期のデル・ジェスのため違う作者のものと言われ買い叩かれてしまうこともあるでしょう。そもそも、どこの楽器店でも多額の現金をすぐ用意できるわけではありません。買取時に身元を明かす必要があるし振込先を伝える必要もあります。
結局、売れず人前に出せずだんだん音の悪くなる楽器を自分で持っているしかないわけです。バカでかい音がするため自分で弾くことすら出来ないかもしれません。そして犯人の死後、発見されたら家族や子供や知人にも迷惑をかけます。フーベルマンのストラディヴァリのように。
自首できる勇気があれば一番ですが、そうでなければ盗んだときと同じようにシャコンヌさんにこっそりと返すのが犯人にとっても世の中にとっても良いのではないでしょうか。
盗難にあったデル・ジェスは、世界的に活躍しているとある若手演奏家(本当に素晴らしい演奏をなさる方です)に近々貸す予定とシャコンヌさんが以前言っておられた楽器です。そういう本来の流れに乗せる方が良いとわかるほど、犯人が音楽と楽器を愛する人物であることを切に願います。
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